第9回草原の旅 感想文 『オロン・スム遺跡を目の当たりにして』

『オロン・スム遺跡を目の当たりにして〜旅に同行した方々と旅で出会った人々』
内蒙古大学 テクスパヤル教授の感想文

2011年6月27日、岐阜県・高鷲村の"上遊会・デルゲルフー基金"(モンゴルとチベットを応援するNPO団体)の古橋さんと杉沢さんが日本からフフホトに来られた。北京で阿部先生(元大阪外国語大学の先生、現中国青海省西北民族学院で教鞭を執る)と合流して、一緒に来る予定だったが、阿部先生は教え子たちの試験のために西寧へ帰らざるを得なかったそうだ。


 早速、シンバヤルさんの車は、ダラン・ハラ山(中国語で"大青山")のオンゴン・ダバー峠(中国語で"蜈蚣?")を超えて行く。 それから、武川県を走った。この県は完全に漢族入植の地域になるのだ。途中、丘の斜面にゲルの形をした、積み上げた"建築物"があった。古橋さんに"あれは何だと思いますか"と聞いたら、"オボーだ"とのお返事。あれは実は漢族農民の墓なのである。そんなことは外国人に分かる筈がないのである。遠くから見たら、モンゴルのゲルによく似ているから、ゲルであると間違えがちでもある。そして、私は思わず、"モンゴル人は生きている内にゲルに住むが、漢族は死んでからゲルにすむのだ"と言った。(図1)旅をしていると、思ってもいなかった感想が急に出てくるのだ。これが旅の好さかも知れない。


上世紀80年代初めから、シラ・ムレン・スムを中心に観光地が開発されていた。私はここに何回も来ていたが、今回来て見たら、観光地の規模がもっと大きくなり、お寺の周 りにゲル(ger)の群れがぎっしりと並んでいる。 シラ・ムレン・スムの本名は実は、ホタラ・ニールーレグチ・スム(普会寺)である。モンゴルのお寺の本名というのは、清朝政府や皇帝から正式に与えられた、満州語とモンゴル語と漢語とチベット語の名前である。シラ・ムレン・スムの満州語の名前は、フブチ・アチャンブレ・ジュグテヘン(Hubci acanbure jugtehen)である。満蒙漢蔵四語の意味は同じである。文献に書いてあるのが本名である。 シラ・ムレン・スム(図2)というのはそのお寺の俗名である。俗名は中々文献に出てこないが、モンゴルの庶民(牧民)たちは皆その俗名でお寺を称している。俗名は実は、彼らのつけた名前で、往々にして、地元の風景と関わった名前となる。  

お寺から引き上げて、ドリンガルさんの案内で"ホンゴル・オボー"巡りに行った。"ホンゴル・オボー"はシラ・ムレン・スムの北側、5キロぐらいの所にあった。 周知の通り、"オボー"はモンゴル民族の信仰の原点である。"オボー"の語源はモンゴル語、"積み立てたもの"という意味で、シャマニズム的な自然崇拝のシンボルでもあり、モンゴルの風俗と切っても切れないほど密着している。後世になって、モンゴル仏教、或いは黄教も"オボー信仰"を受け入れるしかなかった。16世紀後半ごろ、モンゴル民族がチベット仏教を"輸入する"時、チベット仏教はシャマニズムをかなり排除したが、オボーを排除することはとても出来なく、結局、それを受け入れた。そして、モンゴルのオボー信仰のおかげで、モンゴル高原の自然が守られてきたと思う。

"ホンゴル・オボー"を後にして、白霊廟へ走る。途中に大規模の鉄鉱掘りの"開発区"を通り抜ける。道路の南側が採鉱区となり、その奥が何処まで続いているかは分からない。車の中からは、掘り積めた土壁しか見えない。その土壁は褐色で、もう既に死んでいる"砦"か"平城"のように見える。採鉱区は草原を食い尽くすマンガス(モンゴル語で悪魔)のように草原に寄生している。大型トラックの出入りからは寄生虫の"呼吸"が感じられる。"砦"は幾つかもある。

 白霊廟からオロン・スム遺跡へ出発。オロン・スム遺跡こそ、今日の、即ち今回の旅の主な目的地である。
 およそ八年前に、私は阿部先生と一緒に何時間も掛けてフフ・ホトからオロン・スムに行った事がある。しかし、その時は10月ごろになっていたし、天気は寒くなり、道路状況もずっと悪かった。結局、十時間近くも走って来たものの、遺跡を見た時間は10分も足らず、土製の城壁ぐらいを見て帰ってしまった。私はもっと見たかったが、日帰りの予定だったし、午後も遅くなり、風も強く、阿部先生も焦って、すぐに戻った。フフ・ホトに着いたら、もう夜11時ごろになっていたと思われる。
  そして、私の記憶に、オロン・スム遺跡には城壁のほか、何も残っていないという印象がついてしまった。そして、私は"オロン・スム遺跡に何も残っていないよ"と古橋さんと杉沢さんとシンバヤルさんに言いながら、自分もあまり期待していなかった。 道路が改善されて、8年前とは比べものにならない。バト・ハーラガからオロン・スム遺跡に早く着いた。 着いたのは11時ごろかな。私は"時間嫌い"なものだから、一々確かめなかった。私の時間感覚には実は"午前中とお昼と午後"しかない。私が牧民出身だからだ。しかも、40年も前の牧民だから、現在の牧民と違って、時間にとても鈍感なのだ。
 車を降りて、オロン・スム遺跡の城壁の中に入って見たら、遺跡は沢山残っているのではないか!結局、私は途中で古橋さんたちに"何もない"と嘘をつき、その嘘が半日も経たずにばれたことと成る。 自分が"嘘付きさん"になったけれど、オロン・スムの建物の遺跡と建築材の瓦や煉瓦を目の当たりにして、矢張り感動した。

<<本文より一部抜粋>> 全文はコチラ(PDF)

*作者Tegus-Bayar(テクスバヤル/ 特古斯巴雅爾)
1954年生まれ。1992年―1997年日本留学、大阪外大修士。2003年内モンゴル大学博士。
現内モンゴル大学・民族学?社会学学院教授


2011/06/23 第9回草原の旅

 今回の「草原の旅」は14世紀、元代のオロンスム遺跡の下調査の為のモノでした。
この遺跡は中部内モンゴルの乾燥した草原地帯にあり、ジンギスカンの子であるオゴチーハンやその子が世界帝国を築き中心のクーロンに次ぐ副都として建設され世界各地頼人、物文化がこの草原の都に集積しており大いに賑わっておりました。その中にはネストリュウス派のキリスト教会もありました。
 その後、元帝国の北帰(民に逐われ中国から胡地の草原に引き揚げた)し、チベット仏教の移入に伴い寺院も建立されましたが、モンゴル帝国の衰退とともにこの都は打ち棄てられ廃墟となってしまいました。
 1935年から東京大学の江上波夫先生がユーラシア大陸の調査の一環として訪れ「蒙古高原横断記」を記され発掘した文物は横浜のユーラシア文化館、フフホト市の将軍廟に納められ展示されています。
 現在、内蒙古大学のシンバヤル教授が「蒙古高原横断記」をモンゴル語に翻訳し自らの文化、歴史をモンゴルの人達に広く知らしめようとしています。
 この事はモンゴルと日本は海を隔てていますが江上先生の日本人のルーツを騎馬民族であるとの説を裏付ける著書であり、現在では遺伝学の発展に伴いその正統性が証明されつつあります。この事は日本人が一番東のモンゴルと云われる所以でもあります。



2011/05/14 ゲルの組み立て

5月14日にモンゴル人留学生を招いて地元有志12名でゲルの組み立てを行いました。
 ゲルはモンゴル遊牧民の移動式住居ですが、内モンゴルでは遊牧は禁止されています。その上留学生達の出身は都会であり、ゲルを組み立てた事が有りませんでした。
 日本に来てモンゴルゲルを組み立てたことに、彼等は大変、感動詞興奮していました。

 最近内モンゴルの草原で石炭の露天掘りによる環境破壊に対するモンゴル人のデモが報道されていますが、美しい草原を人類として遺してゆきたいと思います。



2010/08/28 第12回クリルタイ

白鳥触れ合い会館で「第12回クリルタイ」が開催されました。
最初に富山神通民謡友の会の民謡、踊りが公演され中国語への通訳を富山大学のモンゴル人留学生のチェルゲルさんが行いました。

 

 続いて岐阜大学工学部修士課程を昨年卒業しイビデンに就職されたソナム・ダルジーさんが
「日本に来て思うこと」と題して、お話をされました。
今の日本人の物質、経済優先の心を痛烈に批評され、思い当たる事が多く、良いお話でした。
白鳥国際交流協会が四川省チベット人居住区の大震災の義捐金を募集し、
そのお金をソナム・ダルジーさんに金山会長が手渡ししました。
このお金は中国政府を通さずに直接、被災者に渡します。
皆様の、暖かい志に感謝しておりました。
義捐金には交流協会だけでなく匿名の米国人、中国人、日本人からも頂きました。

2010/07/25 第8回草原の旅





2009/08/22 クリルタイ

上野、木曽馬牧場での、この夏結婚したチュウインデンブンと北島さんが、チベットの民族衣装で木曽馬に乗馬しました。是がこのカップルの新婚旅行になりました。

  夜は蛭ヶ野高原の山荘で留学生26名日本人学生2名、日本人支援者23名が夜、遅くまで語り合い歌い、踊り飲み交流を深めました。

 



2009/07/16 第7回草原の旅







2008/08/30 第10回クリルタイ

8月30日(土)白鳥ふれあい創造館にて、第10回クリルタイを開催しました。
総勢80人が参加し、モンゴルからの留学生の皆さんによる歌から始まり、踊りや馬頭琴の披露、小谷 茂さんによる講演などモンゴルの文化・風習を感じ、またボウリング大会を楽しみ交流を深めました。
 
 
 
 






2008/07/12〜21 第6回草原の旅








2008/06/25 ふれあい交流会

6月25日夜、白鳥ふれあい創造館で、ふれあい交流会を開催しました。国際結婚のカップルや会員約20名が参加し、おはやしが始まると見よう見まねで踊りに熱中し白鳥踊りを楽しみました。
「盆踊りが習いたい」との要望を受け、踊り保存会の協力を得て企画しました。






在住外国人とめぐるNorth GUJO(大和〜白鳥〜高鷲)Vol.1

中部国際空港開港、東海北陸自動車道の全通など、郡上市が目指す外国人観光客を誘致するための環境が整い、今後は各施設、各地域の取り組みが重要となります。
白鳥町国際交流協会では、在住外国人の皆さんと共に郡上の各地域をめぐり、その魅力を体験してもらいました。

ルート 白山中居神社 → 大師堂 → 長滝白山神社 → 長龍寺 → 若宮集古館 → 白山文化博物館 → 瀧宝殿 → 古今伝授の里フィールドミュージアム

石徹白まで移動するのは大変ですが、すごくきれいで自然が素晴らしい所だと思います。白山中居神社は神秘的な魅力があり、白山に登らなくても白山山々脈の真っ直中にいる感じがします。大師堂は秘密にされている物を見せて頂いた感じがしました。歴史やいわれを丁寧に説明してもらいましたが、すぐには理解できず残念でした。
 長滝白山神社周辺も好きでした。特に若営集古館では江戸時代の展示を見て、白山信仰をもつ人がどんな生活を営んでいたのかをちょっと想像出来ました。宮司さんともっとゆっくり話したかったです。
 古今伝授の里フィールドミュージアムは休憩とかお弁当を食べたりする所として向いていると思いますが、私たちには展示の重要性が少し分かりにづらかったですね。レストランももちどりでフランス料理をたべてみたいです。
*   *   *
 外国人の観光客は、どこに行けばいいか、何をすればいいかなどを考えてみました。日本全体の観光地というのは全部行けないぐらい多くあります。大事なのは郡上でしか出来ないことを外国人の観光客にアピールすることです。そうすれば、外国人の観光客がわざわざ郡上まで観光に来ると思います。それに観光だけではなく、何か観光地の歴史と関係ある活動があったらもっと興味をひきます。以上の観点から次ようなコースを考えてみました。観光地を巡る順番も大事だと思います。
(文・外国人協力者)
<白山コース (週末の土・日:2日間)>
 1日目−白山信仰ついて学ぶ
   白山文化博物館、長滝白山神社、若営集古官、中居神社
 2 日目−日本の三名山の白山を登る
   平瀬山道で白山を登る、ひらせ温泉

○外国人協力者 ロージャス・クリストファー(アメリカ)
ジョナサン・ギャスパー(アメリカ)
○ご協力 白鳥文化財保護協会 山下 松夫 様
大師堂 説明案内 上村 修一 様
長龍寺 説明案内 市村 忠雄 様
若宮集古館 説明案内 若宮 多門 様 若宮 美也子 様
※ご協力ありがとうございました。

 

2008/04/26 ゲルの組み立て

4月26日に暴風雨の中、三島会長、始め会員8名とモンゴル人留学生7名がゲルの組み立てをしました。驚くべき事に、彼等は初めての体験だと云うことでした。日本に来てゲル組み立てをするとは思ってもいなかったそうです。モンゴル人として恥ずかしいと思いながらも興奮しておりました。騎馬民族でありながら馬に乗った事がない学生が3名ほどおりました。この次は乗馬体験を計画しています。






2007/09/01 第9クリルタイ 

モンゴル、チベット、カザフの民俗音楽、踊り、中央アジアについての講演を行ないました。
以上のアトラクション,アスファンフーさんの馬頭琴の演奏等を行い、デュセンアイルさん(京都大学言語学博士課程)の「中央アジアの文化と歴史」についての基調講演のあと、フリートーキングを行ないました。






2007/07/23 第5回草原の旅 10日目

6時にホテルを出発。
珍しく定刻に離陸。福井の海岸、琵琶湖、高度を下げ鈴鹿の山並み、間もなく中部国際空港だ。
 早速、新聞を買う。皆さん、食い入るように読む。この10日間、日本で何があったのだろうか?各方面行きの名鉄電車にそれぞれ乗り込む。「第5回 草原の旅」は終わった。





2007/07/22 第5回草原の旅 9日目

チベット人の老女
深い皺が彼女とチベットの歴史を物語っている。
日本の誰かさんの、昨年、亡くなった、お母さんに似ている。帰ったら、バイマンさんから頂いた、お線香を手向けよう。
お婆さん、これからの若者を見守って居てください。
この旅は、いろいろな人の人生を駆け足で見ている。自分も駆け足で生き抜いてしまったのかもしれない。
残り少ないが、もっと、ゆっくり人生の旅をしなければならないと思う。







2007/07/21 第5回草原の旅 8日目
早めに青海湖へ出発。清寧は既に標高2000mあり、清々しい朝。途中に日月山と言う峠がある。(標高3560m)そこは冬、ミゾレ交じりの雨、高い山は白くなっていた。
ここは1日に四季があると云われている。
峠を下り草原を行けば今回の目的の青海湖。この旅行一番の季候になった。(ツイテル、ツイテル)気温も急激に上昇し春の天気。一面の菜の花畑。紺碧の空。七色の青海湖。




2007/07/20 第5回草原の旅 7日目
前日、黄河上流で大雨だったそうで黄河は増水。駅のすぐ裏にある五泉山へ行く。入り口の公園では太極拳をする人、楽器を奏でる人、凧を揚げる人、犬と散歩する人、豊かになり人生を満喫しているかのようだ。
無心にシャボン玉で遊ぶ親子
この子の為にも掛け替えのない
少しでも良い地球を遺したい。綺麗な空にシャボンダマ飛べ!!




2007/07/19 第5回草原の旅 6日目

窓外は荒涼たる風景。乾燥地帯だ。
山には殆ど樹木がない。2000年前は美しい山林だったろうに。各王朝が宮殿を建てる為、又、最近では偉大なる毛沢東主席の全く役に立たなかった鉄鋼増産施策による農山村での超小型製鉄の為、炭に成ってしまった。もう、元に戻らないかもしれない。
ヤオトンも所々に見られる。山の北斜面に石窟を見るが地図からしても名所、旧跡にはなっていない。中国の奥深さを実感する。




2007/07/18 第5回草原の旅 5日目

夕日が沈む。その時、光柱が沈んだ太陽から真っ直ぐ天に向かって延びている。初めて見る光景に皆さん、感動した。思い出深い良い旅になる事を暗示しているかの様だ。
「ツイテル。ツイテル。と思う事が重要」とは同行された人生のベテランの言葉。正にラッキー。幸せと感謝することが肝要。






2007/07/17 第5回草原の旅 4日目
昨夜から小雨。
町の郊外にあるシリンホト空港に向かう。草原の中の空港だ。1日に3本くらいしか発着しない。
40人乗りの小型ジェットに乗り込む。フフホトまで1時間の空の旅。
フフホトとはモンゴル語で「青い城又は町」の意。
夕刻、6時過ぎ、フフホト空港につく。さすが内モンゴルの首都の空港で綺麗で立派な空港だ。北京オリンピックではサブ空港になるとの事でターミナルビルなどが急ピッチで建設されている。オリンピックが終わったら何に利用するのだろう?と云う素朴な疑問が浮かぶ。


2007/07/16 第5回草原の旅 3日目
ホロンゴル草原へ向かう。まっすぐな舗装道路、木も殆ど見かけない美しい草原だ。所々、羊、牛、馬が放牧されている。ゲルの少年、少女が馬に乗って鮮やかなデール(モンゴル服)を着て待っていた。
ゲルに到着するとご主人、奥様、共々正装して、馬乳酒と歌で歓迎の挨拶。 乗馬、弓を楽しむ傍ら少年が羊を葬り解体。未だ、未熟だ。何回もの「草原の旅」を陰ながらボランテアで支えてくれた勝利君が若奥さんを連れて来る。全員で飲み、食い、歌い、踊る。二階堂さんが正式な「阿波踊り」を牧民、我々に懇切丁寧に御指導下さる。古里に帰った。
                    モンゴル弓を楽しむ。傍らで少年達が羊を解体している。↑


2007/07/15 第5回草原の旅 2日目

慕田峪の長城は八達峰の長城と異なり外国人観光客が少なく保存状態も良い。
ロープウエイに乗る。前回より高く往復で95元もした。途中、リフトを発見、そういえば前回はリフトに乗ったんだ。25元安いがそれでも前回と比べればかなり値上げをしたものだ。モヤで遠くは見渡せない。 長城から多倫(ドロンノール)まで山道を400Km、まず観光客は行かない。対向車も希。中国の寒村が理解できる。

          永延と続く長城、世界遺産である。→


2007/07/14 第5回草原の旅 1日目

Pm1.30中部国際空港発、台風14号九州上陸間近。
「15日早朝に東海地方再接近」との予報。無事、飛行機が飛び立てるのか心配だった。天に祈る。・・・・祈りが通じたのか。離陸。出口にシンバヤル先生、阿部先生がお出迎え。何れも一年ぶりの再会を喜ぶ。阿部先生は心配しての事。西寧で会う、と約束。万里の長城は正にモンゴルの騎馬民族と農耕民族である漢との国境であり2000年以上前から幾度となくモンゴルの騎馬軍団がこの長城を越えた。 「現在は漢族がモンゴル、チベット、ウイグル等を少数民族として支配している」とは、誇り高いモンゴル人教授であるトゥクスパヤル先生の言葉。何とも云えない悔しさが滲んでいた。 今なお存在する国境と云うモノについてより真剣に考えなければ成らない時期なのでしょう。
                     





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